工藤勇一著 校長の力 読了

曰く

解決策は当事者が示していくほかない。

対立が起きたとき、文句を言うかわりに、対話をして合意することができなければいけません。

このドラマ(3年B組金八先生)は「学校は抑圧的な場所」で「先生の多くは、子どもにとって敵」であるという構図をつくりあげてしまった。

ドラマを通じて学校の問題がクローズアップされたこと自体は、非常に意味があります。しかし、対立がクローズアップされ、問題の根本的な「原因」が見えにくくなってしまった。

学校を批判すれば正義である、というお定まりの図式が金八先生のヒットによって定着したとすれば、それはもっと深刻な問題を生んだことになります。「3年B組金八先生」は、結果として「学校教育に問題がある」というイメージを広く根づかせました。そうした風潮によって、新たな問題が生まれていきます。教員側からすれば、できるだけ問題を発生させないようにしたいという心理になりがちです。そして問題が生まれないようにと、ますます管理を徹底していくようになります。 中略 生徒や保護者の視点から言えば「教師や学校にサービスを求める」という図式を加速させてしまった。

与えられるのを待つ姿勢が当たり前になった人間は、うまくいかないことが起こるたびに、他人のせいにしてしまうようになります。

本当は自分の力で学んでいくことができる人間にならなければいけないのに、自分の力を伸ばすには良い環境が必要なのだと勘違いしてしまっているのです。そして、うまくいかないと人のせい、環境のせいにするわけです。

やらされる体育祭から、みんなで楽しみながら盛り上げることのできる体育祭に変わっていったのです。  中略  中でも全員リレーをやるかやらないか、その決定プロセスは象徴的な出来事でした。3年生にアンケートをとると8割が「全員リレーをやりたい」と回答。 中略 「やりたくない」と意思表示した人が、数にして15人ほどいたのでした。後日、生徒会長が卒業式の時のスピーチでこう言っていました。「もし、賛成が100%だったなら、僕たちは全員リレーをやったと思います。でも結果は違いました。話し合いをした結果、僕たちは全員リレーをやらないという結論を出しました。それは僕たちのゴール(目標)「全員が楽しめる体育祭」を実現させるためです」全員リレーをやりたくない理由は、女の子に抜かれて嫌だとか、運動が苦手で苦痛とかさまざまです。それはそれで当人にとっては切実な事情です。全員リレーがあるから体育祭が楽しめないのだとすれば、最初に設定した最上位目標「全員を楽しませる」ということには合致していない、と生徒たち自身が判断したのでした。つまり、運動が得意な子たちは思い切り競争ができるし、苦手な子は遊べて楽しい1日になる。という次第で、「全員が楽しむ」という課題を工夫しながら実現したのでした。

役所は文書主義なので「こういう支援ができます」と文書で規定されていますが、あいまいな部分の判断については前例に委ねられてしまうわけです。ということは、文書に書かれていることの最大限を読み取ればいいのです。

みんなを当事者にするのが教育。

クレームを言ってくる人たちはものすごくエネルギーが必要なはずです。

クレームには「受けて立つな、横に立て」と僕は教員に伝えています。相手が悪い時でも「決して責めるな、「横に立て」、と。

僕の場合、対立が起こることを前提にしている。

言葉は感情の対立を生みやすいので、リーダーが心がけるべきなのは、みんなにとって幸せな言葉とは何か、みんなにとって、幸せな目的とは何か、といった言葉を考えていくこと。

民主主義の本質とは、「誰一人とりこぼさないこと」。

対立が起こるたびに何のためのこの議論をしているのかというそもそもの目的に立ち戻って発言を繰り返す、それが対話の基本です。

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