監修しました。 https://imprint-india.org/column/sleeping_pill/insomnia_clinic/
ご参考になれば幸いです。
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まさに目からうろことはこのこと。いかに「いわゆる常識」によって人類史に関し目をくらまされていたのか。勉強になります。以下は訳者のあとがき(いまこそ人類史の流れを変えるとき)からの抜粋です。
わたしたちは人類史、現在のところおよそ20万年とされているわがホモ・サピエンスの歴史をほとんど知らない。知らないという自覚も乏しい。それゆえか、その膨大な欠落を、安易な物語で埋めてしまっている。およそそれはルソー版とホッブス版に分類できる。かつては無垢な状態で暮らしていた人間が、あるとき原罪によって汚染されてしまった、というキリスト教のエデンの園神話は、「人間不平等起源論」のルソーによって刷新され、さらにげんだいにいたるまでさまざまなヴァリアントをともなって反復されている。その圧縮ヴァージョンは以下のごとし。狩猟採集民だった頃。人類は、無邪気な心をもち、小さな集団で生活していた。この小集団は、集団がとても小規模だったから平等だった。ところが、「農耕革命」が起き都市が出現すると、これが「文明」と「国家」の先触れとなる。ここで文字による文献、科学、哲学があらわれる、と同時に、家父長制度、常備軍、大量殺戮、官僚制など、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれる。そしてもうひとつのホッブス版はもっとひどい。人間は利己的生物である。だから初源的自然状態とは、万人が万人と争い合う戦争状態のはずだ。この悲惨な状態から進歩があったとすれば、ルソーが不満を抱いていた抑圧的機構のおかげだったのだ、と。現在でも人類史の語りを支配しているこれらの物語はともに棄却されるべきだ。
かれら(アメリカの先住民)はヨーロッパ人たちの競争や金銭に対する執着に、ホームレスを放置するその態度に、同法を見殺しにして」平然とするその冷酷な態度に、議論のさなかに人の発言を遮るその不作法と弁舌が粗暴であることに、女性が不自由であることに、目上にはへいこらし目下には厳しいその卑屈な態度に、すべて仰天した。先住民にとってそれらは、とうてい見逃せない、蔑むべき「野蛮」でしかなかったのだ。
世界を変えたい、社会的現実の網の目を切り裂いてもう一度やり直したいという欲求こそが、わたしたちを「サピエンス」に仕立てているのである。科学的な証拠によって私たち自身の過去に遡るなら、このことが真実であることがわかる。私たちの祖先は、進化論や哲学的思索の描くような無味乾燥なでくのぼうではない。わたしたちの全歴史をふり返るなら、わたしたちが遊び心と創意にあふれた種であることがわかる。略取と拡大―「成長か死か」―の自虐的ゲームに閉塞し、ルールを変更する術を忘れてしまったのは、つい最近のことなのだ。わたしの亡き友人であるデヴィット・グレーバーは、こういっている。「世界の隠された究極の真実は、その世界は、わたしたちがつくり、またおなじようにかんたんに別のかたちでつくることができるということだ」。このプロセスを開始するためには、どんなに大きな障害があったとしても、わたしたちはふたたび大きな夢をみることをゆるさなければならない、ただしこんどは、わたしたちを人間に仕立て上げた自由から出発して。
2020年 本屋大賞 翻訳小説部門 第一位となった作品。思春期のアンビバレンツな心の動きを見事に描き出しています。思春期の方と相対する方はもちろん、思春期を経験したことのあるすべての方に読んでいただきたい。
アリスの気持ちは?アリスはその気でも、アリスの将来を想像したチャーリーはとても耐えられなかったのだろう。訳者の言うように、チャーリーは救われた、と思うことで、行き場のなかった自分の気持ちを納得させることがやっとできた。
かつて勝どき1丁目、かつての月島9丁目?、に住んでいた我が身からするととても身近でかつ懐かしくもある一冊でした。住吉神社のお祭りは素敵ですよ。水の街江戸を東京に新たな形で復活しては、との氏の想いが伝わります。四方田犬彦氏は、2022年発行の東方見聞録にナビゲーションを執筆されていた方で、文章が気に入り、かつ著書に月島物語があることを知り、興味を持ち、月島物語を入手した次第です。
第9章.涙が止まりませんでした。溢れ続けました。びっくりです。やられました。
ほんの800年前の人々が行っていた実に様々な、今となっては驚くべき習慣が、かざりけなく、当たり前のように、淡々と記述されている。そしてごく普通に戦いも行われている。戦いが行われている点は今も同じか。。。。
東京都眼科医会学校保健学術講演会で話をさせていただきました。
曰く
解決策は当事者が示していくほかない。
対立が起きたとき、文句を言うかわりに、対話をして合意することができなければいけません。
このドラマ(3年B組金八先生)は「学校は抑圧的な場所」で「先生の多くは、子どもにとって敵」であるという構図をつくりあげてしまった。
ドラマを通じて学校の問題がクローズアップされたこと自体は、非常に意味があります。しかし、対立がクローズアップされ、問題の根本的な「原因」が見えにくくなってしまった。
学校を批判すれば正義である、というお定まりの図式が金八先生のヒットによって定着したとすれば、それはもっと深刻な問題を生んだことになります。「3年B組金八先生」は、結果として「学校教育に問題がある」というイメージを広く根づかせました。そうした風潮によって、新たな問題が生まれていきます。教員側からすれば、できるだけ問題を発生させないようにしたいという心理になりがちです。そして問題が生まれないようにと、ますます管理を徹底していくようになります。 中略 生徒や保護者の視点から言えば「教師や学校にサービスを求める」という図式を加速させてしまった。
与えられるのを待つ姿勢が当たり前になった人間は、うまくいかないことが起こるたびに、他人のせいにしてしまうようになります。
本当は自分の力で学んでいくことができる人間にならなければいけないのに、自分の力を伸ばすには良い環境が必要なのだと勘違いしてしまっているのです。そして、うまくいかないと人のせい、環境のせいにするわけです。
やらされる体育祭から、みんなで楽しみながら盛り上げることのできる体育祭に変わっていったのです。 中略 中でも全員リレーをやるかやらないか、その決定プロセスは象徴的な出来事でした。3年生にアンケートをとると8割が「全員リレーをやりたい」と回答。 中略 「やりたくない」と意思表示した人が、数にして15人ほどいたのでした。後日、生徒会長が卒業式の時のスピーチでこう言っていました。「もし、賛成が100%だったなら、僕たちは全員リレーをやったと思います。でも結果は違いました。話し合いをした結果、僕たちは全員リレーをやらないという結論を出しました。それは僕たちのゴール(目標)「全員が楽しめる体育祭」を実現させるためです」全員リレーをやりたくない理由は、女の子に抜かれて嫌だとか、運動が苦手で苦痛とかさまざまです。それはそれで当人にとっては切実な事情です。全員リレーがあるから体育祭が楽しめないのだとすれば、最初に設定した最上位目標「全員を楽しませる」ということには合致していない、と生徒たち自身が判断したのでした。つまり、運動が得意な子たちは思い切り競争ができるし、苦手な子は遊べて楽しい1日になる。という次第で、「全員が楽しむ」という課題を工夫しながら実現したのでした。
役所は文書主義なので「こういう支援ができます」と文書で規定されていますが、あいまいな部分の判断については前例に委ねられてしまうわけです。ということは、文書に書かれていることの最大限を読み取ればいいのです。
みんなを当事者にするのが教育。
クレームを言ってくる人たちはものすごくエネルギーが必要なはずです。
クレームには「受けて立つな、横に立て」と僕は教員に伝えています。相手が悪い時でも「決して責めるな、「横に立て」、と。
僕の場合、対立が起こることを前提にしている。
言葉は感情の対立を生みやすいので、リーダーが心がけるべきなのは、みんなにとって幸せな言葉とは何か、みんなにとって、幸せな目的とは何か、といった言葉を考えていくこと。
民主主義の本質とは、「誰一人とりこぼさないこと」。
対立が起こるたびに何のためのこの議論をしているのかというそもそもの目的に立ち戻って発言を繰り返す、それが対話の基本です。