万物の黎明 人類史を根本からくつがえす (デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ著、酒井隆史訳)読了

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まさに目からうろことはこのこと。いかに「いわゆる常識」によって人類史に関し目をくらまされていたのか。勉強になります。以下は訳者のあとがき(いまこそ人類史の流れを変えるとき)からの抜粋です。

わたしたちは人類史、現在のところおよそ20万年とされているわがホモ・サピエンスの歴史をほとんど知らない。知らないという自覚も乏しい。それゆえか、その膨大な欠落を、安易な物語で埋めてしまっている。およそそれはルソー版とホッブス版に分類できる。かつては無垢な状態で暮らしていた人間が、あるとき原罪によって汚染されてしまった、というキリスト教のエデンの園神話は、「人間不平等起源論」のルソーによって刷新され、さらにげんだいにいたるまでさまざまなヴァリアントをともなって反復されている。その圧縮ヴァージョンは以下のごとし。狩猟採集民だった頃。人類は、無邪気な心をもち、小さな集団で生活していた。この小集団は、集団がとても小規模だったから平等だった。ところが、「農耕革命」が起き都市が出現すると、これが「文明」と「国家」の先触れとなる。ここで文字による文献、科学、哲学があらわれる、と同時に、家父長制度、常備軍、大量殺戮、官僚制など、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれる。そしてもうひとつのホッブス版はもっとひどい。人間は利己的生物である。だから初源的自然状態とは、万人が万人と争い合う戦争状態のはずだ。この悲惨な状態から進歩があったとすれば、ルソーが不満を抱いていた抑圧的機構のおかげだったのだ、と。現在でも人類史の語りを支配しているこれらの物語はともに棄却されるべきだ。

かれら(アメリカの先住民)はヨーロッパ人たちの競争や金銭に対する執着に、ホームレスを放置するその態度に、同法を見殺しにして」平然とするその冷酷な態度に、議論のさなかに人の発言を遮るその不作法と弁舌が粗暴であることに、女性が不自由であることに、目上にはへいこらし目下には厳しいその卑屈な態度に、すべて仰天した。先住民にとってそれらは、とうてい見逃せない、蔑むべき「野蛮」でしかなかったのだ。

世界を変えたい、社会的現実の網の目を切り裂いてもう一度やり直したいという欲求こそが、わたしたちを「サピエンス」に仕立てているのである。科学的な証拠によって私たち自身の過去に遡るなら、このことが真実であることがわかる。私たちの祖先は、進化論や哲学的思索の描くような無味乾燥なでくのぼうではない。わたしたちの全歴史をふり返るなら、わたしたちが遊び心と創意にあふれた種であることがわかる。略取と拡大―「成長か死か」―の自虐的ゲームに閉塞し、ルールを変更する術を忘れてしまったのは、つい最近のことなのだ。わたしの亡き友人であるデヴィット・グレーバーは、こういっている。「世界の隠された究極の真実は、その世界は、わたしたちがつくり、またおなじようにかんたんに別のかたちでつくることができるということだ」。このプロセスを開始するためには、どんなに大きな障害があったとしても、わたしたちはふたたび大きな夢をみることをゆるさなければならない、ただしこんどは、わたしたちを人間に仕立て上げた自由から出発して。

アーモンド ソン・ウォンピョン著 矢島暁子訳 読了

2020年 本屋大賞 翻訳小説部門 第一位となった作品。思春期のアンビバレンツな心の動きを見事に描き出しています。思春期の方と相対する方はもちろん、思春期を経験したことのあるすべての方に読んでいただきたい。

四方田犬彦著 月島物語(1992年発行)、月島物語ふたたび 読了

かつて勝どき1丁目、かつての月島9丁目?、に住んでいた我が身からするととても身近でかつ懐かしくもある一冊でした。住吉神社のお祭りは素敵ですよ。水の街江戸を東京に新たな形で復活しては、との氏の想いが伝わります。四方田犬彦氏は、2022年発行の東方見聞録にナビゲーションを執筆されていた方で、文章が気に入り、かつ著書に月島物語があることを知り、興味を持ち、月島物語を入手した次第です。

東方見聞録 マルコポーロ 青木富太郎訳  読了

ほんの800年前の人々が行っていた実に様々な、今となっては驚くべき習慣が、かざりけなく、当たり前のように、淡々と記述されている。そしてごく普通に戦いも行われている。戦いが行われている点は今も同じか。。。。

大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝 斎藤幸平著 読了

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かなり難解ですが、次第に興味深くなって、ゆっくりですが読み進むことができました。

大洪水よ、我が亡き後に来たれ!これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである。P27

この経済学的意味で、マルクスは、「共産主義」が人間と自然の完全なる同一性をもたらすと唱えたのだった。P54

人間もまた「自然の一部」であり、自然を超越して、支配することはできず、むしろ自然という全体のなかでの生産活動を通じて、生命を維持するほかない。その意味で、「自然は人間の身体であって、死なないために人間はこの身体といつも一緒にやっていかなければならない」。P78

リサイクルの目的は持続的生産ではなく、コストカットであり、資本主義のもとでの大量生産・大量消費とそれに伴う自然力の浪費が続く限りで、資本主義的生産が不変資本の節約を通じて、持続可能な経済を生み出す保証はどこにもない。P172

資本主義のあらゆる進歩は、労働者から掠奪する技術における進歩であるだけでなく、同時に土地から掠奪する技巧における進歩でもあり、一定期間の間に土地の肥沃度を増大させるためのあらゆる進歩は、同時に、この肥沃度の持続的源泉を破壊するための進歩である。P214

マルクスは、単に生産力の上昇を賛美し、人間による自然の絶対的支配の確立を唱えたわけではなく、人間の自然からの疎外を克服し、「人間が自然との物質代謝を合理的に制御する」こと、つまり、より持続可能な生産の実現を一貫して求めていたのである。それこそがマルクスの意識的な「エコ社会主義的傾向」なのだ。P286

 マルクスにとって、人間と自然の物質代謝を持続可能な形で維持する可能性を掘り崩すような生産力の増大は「発展」ではなく、「掠奪」にほかならない。P312

 現在最新の遺伝子工学の進歩とともに、私たちは率直にいえば自然そのものが煙へと消えていく新たな段階へと突入している―遺伝子工学の科学的ブレイクスルーによってもたらされる主要な帰結が自然の終焉となるような段階である。ひとたび私たちが自然の構築の法則に通じてしまえば、自然の有機体は操作することが可能な客体へと変容させられる。P377( スラヴォイ・ジジェク、解説)