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2022/01/21

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳  アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳 から

しかし人類の夜明けのはるか前から、人間は人間だった。進化のある時点で基本的な意識が生まれた。その基本的な意識とともに単純な心が生まれた。心がより複雑になるにつれ思考の可能性が、そしてそれよりさらにあとに、言語を使ってより効果的に意思を伝達したり思考をまとめたりする可能性が生じた。当時のわれわれにまずあったのは存在であり、思考するようになったのはそのあとのことだ。また現在のわれわれも、この世に生まれ育つとき、」やはり存在からはじまり、その後思考する。われわれは存在し、それから考え、ひとえに存在するゆえに考える。思考は存在の構造と作用によって引き起こされるのだ。
 この「我」、つまり、私を私たらしめている精神は、身体とは完全に別のものであり、後者よりずっと認識しやすいものであること、そしてたとえ身体がないとしても、精神は精神たることをやめないことを知った。これがデカルトの誤りである。すなわち、身体と心の深淵のごとき分離。大きさがあり、広がりがあり、機械的に動き、かぎりなく分割可能な身体と、大きさがなく、広がりがなく、押すことも引くこともできない、分割不可能な心との分離。理性、道徳的判断、そして身体の痛みや情動的激変に由来する苦しみが、身体から離れて存在するという考え。心のもっとも精緻な作用の、生物学的有機体の構造と作用からの分離。
 身体が分離された心という概念はまた、西洋医学の病気の研究方法、治療方法を特異なものにしてきたように思える。デカルト的分離が研究にも臨床にも浸透している。その結果、純身体の病気、いわゆる本当の病の心理的帰結はたいてい無視され、考慮されるのは再考時だけだ。この逆、つまり心理的葛藤の身体への影響は、さらに無視されている。デカルトは医学の方向変更に貢献した。ヒポクラテスの時代からルネッサンスまで優勢だった有機体的、心身一体的アプローチから、医学が向きを変えることに手を貸した。
 特定の医学的介入以上に患者が良好に反応するプラシーボ効果について、われわれはいまもほとんどわかっていない。
 西洋生物学におけるデカルト思想にもとづく心の無視は、重大な二つのネガティブな帰結をもたらした。
 オルタナティブな医学の今日の成功は、人間を一個の全体とみなすことのできない伝統的な西洋医学に対する大衆の不満のあらわれ、
 苦と快は、本能的な戦略と後天的な戦略を効率的に機能させるために有機体が必要としている梃子である。おそらく苦と快はまた、社会的な意志決定戦略の発達を支配した梃子でもあった。

  ここまでは完全に神山は同意。しかしこの本の最後の段落にある以下の点については「四快のすすめ」を監修した立場としては完全に不同意。

 少なくとも生存における梃子の役割に関する限り、苦と快は双子ではないし、互いに鏡像関係にあるのでもない。どういうわけか、いまもそして予期される将来においても、迫りくるトラブルからわれわれを救ってくれるのは、しばしば、苦と関係する信号である。快を求めることに支配された個人や社会が、苦を避けることによるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、生存できるとは想像しがたい。




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